「アイカムウィズザレイン」を意を決して観てきました。
それだけ、グロ映画は、ダメで。
でも、恐怖心っていうのは自分の中で増幅させていくものなんですね。
映画は、結構、グロレベルでは大丈夫でした。
内容的には、☆4つの満足度。
トラン・アン・ユン監督、やっぱりいいですね〜。
それだけ、グロ映画は、ダメで。
でも、恐怖心っていうのは自分の中で増幅させていくものなんですね。
映画は、結構、グロレベルでは大丈夫でした。
内容的には、☆4つの満足度。
トラン・アン・ユン監督、やっぱりいいですね〜。
冒頭、ゆっくり観客に状況を追わせていくところ、
そこにBGMの残響が加わって
否が応でも状況を刻みこむよう仕向けるところ、
上手いなあと思いました。
でも、キンコンキンコン(←実際の音はなんだったっけ?)
ずっと耳障り。(笑)
時間軸がズレて挿入されるのは気になりませんでした。
それから、英語圏じゃない監督ならではのセリフのわかりやすさ。
これはありがたかったですね〜。
ジョシュ以外の、つまりネイティブ以外の人のセリフ、
かなり体感できたような気がします。
気だけです。ちゃんと書いとくと。(笑)
しかも、この作品では、これまでになく説明が多かった気も。
どうとらえていくか道しるべがついていたような気がします。
でも、どう感じるかに正解があるかというと、
それはなかったんじゃないかと思います。
なので、かなり偏った意見だけどいいよね?(爆)
ここからは私の観たこの映画を。
違う感じ方をされた方もたくさんいらっしゃることでしょう。
お読みのがしくだされ。
ハスフォードの芸術の仕上げとして利用されたクライン。
ハスフォードは、彼が芸術と呼んだものに自分を加えることを最終目的とし、
「苦痛ほど美しいものはない。」と、
クラインに噛み傷という痛みと刻印を押す。
そこに封じ込められて精神を病み、
いわば出口を失ったクラインは、探偵業につくようになっても、
調査相手に過剰な思いを寄せ、
対象を賞賛するという倒錯した傾向から抜け出せない。
自覚はしている。
それだけに苦しんでいる。
そこに、富豪から息子を探すようにとの依頼。
殺されたのに死んだ証拠がないという先の探偵の話。
孤児のために自分を投じた様子や、
傷だらけの写真の数々が、
ハスフォードの世界観にリンクし、
やがて探す相手としてではなく対峙しなくてはならない相手のように、
相手に対する怒りや恐怖心がどんどん湧きあがってくる。
その頃、手下の裏切りで、
愛するリリをどこかに連れ去られたドンボは、
リリがいなくなった恐怖を、
落ち度があった手下を袋に入れハンマーで殴り殺すことで、
自分の中に湧きあがる恐怖をくだけさせようとする。
りりは、ライナスの毛布。
浮浪者を襲った時に傍らにいた犬はリリの象徴。
犬(=リリ)の屍骸を浮浪者に叩きつけるのは、
自分が感じている恐怖(リリを失っているかもしれないこと)の体現・・
のように思った。
安らかに眠るシタオとリリを見て、当然シタオに殺意を向ける。
なのに意外なことに、
シタオはドンボの恐怖に語りかけてくる・・
怖がらなくていい、許す、と。
心にも痛みがある。
シタオは手を差し伸べてドンボの痛みを救いとろうとした。
それを察したドンボは言葉と裏腹に心を溶かしかける。
でも、恐怖で支配されてきた心に救いを受け入れる勇気はない。
皮肉なことに、シタオを貼り付けにすることで、
シタオを自分の痛みに直面させ
生身の体を持つものとしての自分に気づかせる。
そこで、シタオ自身の助けが欲しい時に出た言葉は、
「ファーザー(主よ)」だった。
神の復活をアピールしていた男が
ものすごいタイミング(爆)で通りかかり、
神の存在を確信しさえすれば、
それがどうであろうと構わないと逃げるように去って行く。
皮肉なことにそれは一般的な概念に近いような気がする。
どこかにいて見守りお守りくださるというイメージ。
さらに、ようやくシタオに辿りついたクラインが見たのは、
断片的な写真の生み出したイメージ、
ハスフォードの目を通して見た救世主ではなく、
自分の痛みに顔を歪ませる生身の人間だった。
「お父さん(ファーザー)に頼まれて探しにきました。」
シタオは父の元に戻っていく。
この題を、雨と共に降り、父と共に帰るとしたのは、
父の意思で帰れることを意味したかったから。
孤児のためのお金の無心で一度は殺され、
いとめをつけないお金の力で救いだされたのはシュールだなあ。
クラインは、シタオに同化する最終章として、
シタオが家に帰ること安寧な場所に帰ることを通して、
ハスフォードに押された刻印を解くことになると思う。
神という大きな存在を忘れてはいけない映画だけれども、
人は人と共鳴しあって、痛みを感じ、人の中で癒されていく、
そんな映画だったと思う。
いつも最後に穏やかなエンディングを残すのは監督の人柄?
「ノルウェイの森」がますます楽しみになりました。
さて、長々と解釈もどきを書かせていただきましたが、
キャスティングについてもちょこっと。
クラインを演じたジョシュの冷静であろうとするところと、
囚われて苦しむところの按配がすっごく良かったです。
いつの間にか出なくなった、刑事のショーン君、
彼は誰にでも苦痛に感じる過去があるってことを表わしたかったのか、
なんだったんだろ?
木村拓哉くんは、初めて(←上から目線で恐縮です)上手だなって思いました。
もしかしたら、これまで、求められるキムタク像が大き過ぎて、
損をしてきたのかもしれないと思いました。
役の設定が大きすぎて、
観る人によっては違和感があったかもしれませんが、
あれを直感で演じられるってすごいと思いました。
リリに奥様を起用されたことについては、
観る前は、またかい!(爆)としか思ってませんでしたが、
あの浮き世離れしたふわっふわっとした佇まいは、
思っていた以上に説得力があって良かったです。
最後、ドンボは、えへっ、やっぱりBHが演じると粗ぶった悪党ではなく、
どこかモロさを内包したキャラ設定になってしまうんだなあと。
ショーン君が憎憎しげに言うほど、憎たらしさを感じず、
(果たして憎たらしく観ることができるんだろうか?)
猛々しさ残酷さがスーツの中に納まっているところが、
もうちょっと悪くても良かったかなあと思いました。
リリを前にするとスイート感が漂って、
どうしても自分の中のそういうイメージで観ちゃうので、
客観的な視聴は無理です〜。
と、とりあえず、急ぎ記憶を封印。
本や映画は個人的な所感で楽しむものなので、
違うご意見の方もその違いを楽しみの1つに変えて
読んでいただけたらと思います。
では、良い週末を〜。
そこにBGMの残響が加わって
否が応でも状況を刻みこむよう仕向けるところ、
上手いなあと思いました。
でも、キンコンキンコン(←実際の音はなんだったっけ?)
ずっと耳障り。(笑)
時間軸がズレて挿入されるのは気になりませんでした。
それから、英語圏じゃない監督ならではのセリフのわかりやすさ。
これはありがたかったですね〜。
ジョシュ以外の、つまりネイティブ以外の人のセリフ、
かなり体感できたような気がします。
気だけです。ちゃんと書いとくと。(笑)
しかも、この作品では、これまでになく説明が多かった気も。
どうとらえていくか道しるべがついていたような気がします。
でも、どう感じるかに正解があるかというと、
それはなかったんじゃないかと思います。
なので、かなり偏った意見だけどいいよね?(爆)
ここからは私の観たこの映画を。
違う感じ方をされた方もたくさんいらっしゃることでしょう。
お読みのがしくだされ。
ハスフォードの芸術の仕上げとして利用されたクライン。
ハスフォードは、彼が芸術と呼んだものに自分を加えることを最終目的とし、
「苦痛ほど美しいものはない。」と、
クラインに噛み傷という痛みと刻印を押す。
そこに封じ込められて精神を病み、
いわば出口を失ったクラインは、探偵業につくようになっても、
調査相手に過剰な思いを寄せ、
対象を賞賛するという倒錯した傾向から抜け出せない。
自覚はしている。
それだけに苦しんでいる。
そこに、富豪から息子を探すようにとの依頼。
殺されたのに死んだ証拠がないという先の探偵の話。
孤児のために自分を投じた様子や、
傷だらけの写真の数々が、
ハスフォードの世界観にリンクし、
やがて探す相手としてではなく対峙しなくてはならない相手のように、
相手に対する怒りや恐怖心がどんどん湧きあがってくる。
その頃、手下の裏切りで、
愛するリリをどこかに連れ去られたドンボは、
リリがいなくなった恐怖を、
落ち度があった手下を袋に入れハンマーで殴り殺すことで、
自分の中に湧きあがる恐怖をくだけさせようとする。
りりは、ライナスの毛布。
浮浪者を襲った時に傍らにいた犬はリリの象徴。
犬(=リリ)の屍骸を浮浪者に叩きつけるのは、
自分が感じている恐怖(リリを失っているかもしれないこと)の体現・・
のように思った。
安らかに眠るシタオとリリを見て、当然シタオに殺意を向ける。
なのに意外なことに、
シタオはドンボの恐怖に語りかけてくる・・
怖がらなくていい、許す、と。
心にも痛みがある。
シタオは手を差し伸べてドンボの痛みを救いとろうとした。
それを察したドンボは言葉と裏腹に心を溶かしかける。
でも、恐怖で支配されてきた心に救いを受け入れる勇気はない。
皮肉なことに、シタオを貼り付けにすることで、
シタオを自分の痛みに直面させ
生身の体を持つものとしての自分に気づかせる。
そこで、シタオ自身の助けが欲しい時に出た言葉は、
「ファーザー(主よ)」だった。
神の復活をアピールしていた男が
ものすごいタイミング(爆)で通りかかり、
神の存在を確信しさえすれば、
それがどうであろうと構わないと逃げるように去って行く。
皮肉なことにそれは一般的な概念に近いような気がする。
どこかにいて見守りお守りくださるというイメージ。
さらに、ようやくシタオに辿りついたクラインが見たのは、
断片的な写真の生み出したイメージ、
ハスフォードの目を通して見た救世主ではなく、
自分の痛みに顔を歪ませる生身の人間だった。
「お父さん(ファーザー)に頼まれて探しにきました。」
シタオは父の元に戻っていく。
この題を、雨と共に降り、父と共に帰るとしたのは、
父の意思で帰れることを意味したかったから。
孤児のためのお金の無心で一度は殺され、
いとめをつけないお金の力で救いだされたのはシュールだなあ。
クラインは、シタオに同化する最終章として、
シタオが家に帰ること安寧な場所に帰ることを通して、
ハスフォードに押された刻印を解くことになると思う。
神という大きな存在を忘れてはいけない映画だけれども、
人は人と共鳴しあって、痛みを感じ、人の中で癒されていく、
そんな映画だったと思う。
いつも最後に穏やかなエンディングを残すのは監督の人柄?
「ノルウェイの森」がますます楽しみになりました。
さて、長々と解釈もどきを書かせていただきましたが、
キャスティングについてもちょこっと。
クラインを演じたジョシュの冷静であろうとするところと、
囚われて苦しむところの按配がすっごく良かったです。
いつの間にか出なくなった、刑事のショーン君、
彼は誰にでも苦痛に感じる過去があるってことを表わしたかったのか、
なんだったんだろ?
木村拓哉くんは、初めて(←上から目線で恐縮です)上手だなって思いました。
もしかしたら、これまで、求められるキムタク像が大き過ぎて、
損をしてきたのかもしれないと思いました。
役の設定が大きすぎて、
観る人によっては違和感があったかもしれませんが、
あれを直感で演じられるってすごいと思いました。
リリに奥様を起用されたことについては、
観る前は、またかい!(爆)としか思ってませんでしたが、
あの浮き世離れしたふわっふわっとした佇まいは、
思っていた以上に説得力があって良かったです。
最後、ドンボは、えへっ、やっぱりBHが演じると粗ぶった悪党ではなく、
どこかモロさを内包したキャラ設定になってしまうんだなあと。
ショーン君が憎憎しげに言うほど、憎たらしさを感じず、
(果たして憎たらしく観ることができるんだろうか?)
猛々しさ残酷さがスーツの中に納まっているところが、
もうちょっと悪くても良かったかなあと思いました。
リリを前にするとスイート感が漂って、
どうしても自分の中のそういうイメージで観ちゃうので、
客観的な視聴は無理です〜。
と、とりあえず、急ぎ記憶を封印。
本や映画は個人的な所感で楽しむものなので、
違うご意見の方もその違いを楽しみの1つに変えて
読んでいただけたらと思います。
では、良い週末を〜。



やっとご覧になることができてよかったですね☆
1回の鑑賞でこれだけいろんなことを考えられるなんて凄いわ。
覚悟して行ったので、私もグロさは思ったほどでは
なかったです。
決定的場面は画面の下というようなところもあって
見せてなかったので、グロさが抑えられたのでは?
私には深〜く考える力が無いようで^^;少しばかり自己嫌悪に陥っています。
つまるところやっぱりBHに見とれちゃっているのよね(^^ゞ